田中山神社の歴史
History
由緒
『芸藩通志』によると、1299年(正安元年)武田信宗が銀山に築城した際、鬼門を除くために勧請した。
村帳簿に記載されていたという1715年(正徳5年)の神社改めの際の申し出書によると、信宗は、御供米として田圃を寄進し、後に毛利元就が当地の領主であった1541年(天文10年)以降は、社領として40石を寄進していたが、1600年(慶長5年)に毛利輝元が防長に転封され、福島正則が領主となるに及んで社領を没収されたとある。
当神社棟札によると、1778年(安永7年8月25日)本殿が再建された。
1871年(明治4年)、政府が定めた社格によって村社となり、神饌幣帛料を供進された。当神社は、上安村、相田村、高取村の産土神で古くから一ノ宮を称していたが、そのような確証がないため、一ノ宮の名称は取り消しとなった。
1887年(明治20年)10月10日の祭礼の際に、拝殿と幣殿が火災により焼失したが、翌年11月、再建上棟した。
・本殿の様式
三間社入母屋造
別名 八幡宮(旧称) 一ノ宮八幡宮(旧称) 安の天神さん(通称)
主祭神
・帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)/仲哀天皇
・息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)/神功皇后
・品陀和気命(ほむだわけのみこと)/応神天皇
・大雀命(おほさざきのみこと)/仁徳天皇
・市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)/宗像三女伸の一柱/水の神・財宝の神
・多岐都比売命(たぎつひめのみこと)/宗像三女伸の一柱/水の神・財宝の神
・多紀理比売命(たぎりひめのみこと)/宗像三女伸の一柱/水の神・財宝の神
・菅原道真(すがわらのみちざね)/学問の神
田中山神社神楽殿建立記
田中山神社の歴史・由緒についての神社掲載額によると、正安元年(一二九九年)にこの地に勧請され、以来平成二十九年で、七百十八年の永きにわたりこの地の地域住民の心の拠り所として崇められて来ていることが記されております。
地域との係性は脈々と受け継がれ、今日に至るまで大祭時には神楽奉納などの各種催事が執り行われ、其の都度、地域住民の方々、とりわけ総代各位の熱意により、滞りなく執り行われて来ておりました。
しかし、各総代の高齢化もあり、従来の神楽殿は屋根もなく、コンクリート製で例年の神楽舞台設営には、大変な苦労を伴うものであったため、ここ十年来の懸案として、新神楽殿の建立が検討されて来ておりました。
この様な状況のなか、平成二十六年八月二十日に安佐南区録井・八木地区で発生した「豪雨災害」により、緑井の宮「宇那木神社」が裏山城壊により、境内に大きな被害が発生し、その中で境内の檜の倒壊もあり、止む無く伐採せねばならなくなりました。
この様な状況の中から、従来から懸案であった「神楽殿建立」にこの伐採される槍を用材として利用させていただくことで、「宇那木神社」の思い、神社の心を引き継ぐことが出来るのではないか、との発想が生まれてまいりました。
このことを宇那神社の玉本宮司にお伝えしたところ、そのご配慮により「田中山神社」の神楽殿の柱、その他用村として活用させていただくことが出来る運びとなり、安佐地区ゆかりの方及び神社関係者を発起人とする「田中山神社神楽殿整備奉賛会」を平成二十七年十月に立ち上げるに至ったものであります。
その後、建設に向けての必要資金四千五百萬円の奉金募集に着手、平成二十八年八月には、各発起人等のご協力により、そのめども立つ状況となったため、建設委員会を結成し、四社に建築費の見積もりを依頼、その結果、安佐南区上安一丁目に本社を置く、「橋本建設株式会社」に発注することが決定。
平成二十八年十一月七日発起人、総代、及び関係者が参列し、地鎮祭を催行、平成二十九年三月二十日上棟祭催行、竣工祭は秋季大祭前夜、平成九二十九年十月十四日に合わせ、除幕式、竣工報告祭、錦城神楽団、青空子供神楽団、荒谷太鼓などの奉納。
二千人の参拝者を動員、過去にない賑わいで、無事後世に神楽殿の建立を通じて引き継ぐことが出来ました。
神楽殿の役割は、神社行事の場であるだけでなく、地域の学生の発表の場、地域の交流の場として、末永く活用されていくものとして期待されております。
平成二十九年十月吉日